● 藤本一勇先生のご寄稿

私はこの四月からある同好会の顧問になった
Le hasard a voulu que je m'occupe d'un club comme conseiller depuis cet avril...
 私はこの四月からある同好会の顧問になった。

 その同好会とは、驚いたことに「フランス語同好会」である。何が驚きなのかといえば、今まで早稲田にフランス語サークルがなかったという事実(フランス文学・思想関係サークルはあるらしい)もさりながら、英語帝国主義の嵐が吹きまくるこのご時世に、新しくフランス語サークルを立ち上げようという学生が少なからず存在したことである(絶滅種を発見した冒険家の気分だ)。

 フランス語教師の端くれとして誠に歓迎すべき出来事だが、さらに興味深いのは、同好会の多くが二文の学生なのだ。幹事長と会計は一文学生で、彼らは大学入学以前からフランス語学・文学に興味を抱いていたという、愛すべき「変わり者」たちである。しかし、その他はほぼ二文の学生たちだ(悲しいかな、昨年私が担当した一文のフランス語クラスの人間は一人もいない)。

  教員の一般的印象として、二文には「面白い」学生が多い(ような気がする)。一文の学生は秀才タイプ、二文は変わり者(言い換えれば「面白い奴」)というのは、両学部気質の比較に関するかなり紋切り型に近い一般論ではあるが、実際に学生に接してみると、あながちステレオタイプとばかり言いきれない気もする。早稲田は「人種のるつぼ」であることが長所でもあり短所でもあるというのも、これまた有名な紋切り型だが、それに従えば、二文こそ「早稲田的なもの」をある意味集約している存在なのかもしれない。

 秀才型一文生は役に立つかどうかもわからないフランス語よりも、経済的・社会的に保証のある英語を勉強することの方に(効率的に)力をいれるが、現在の秀才化した早稲田においてマージナルな立場にある二文生だからこそ、第二外国語のごとき「無駄」を排しようとする論理に抵抗するのか? ――そんな愚慮を巡らせてしまう。


 しかし、単に学生気質の問題ばかりではないかもしれない。第二外国語について言えば、二文は英仏独露中といった一文にもある語学ばかりでなく、スペイン語、イタリア語、朝鮮語、さらにはアラビア語といった言語も(随意科目ではあるが)選択できるし、また何年生からであっても一から学ぶことが出来る。意欲ある学生なら数ヵ国語を同時に勉強することだって可能だ。あるいは、一文と違って、1クラスあたりの生徒数も少なく語学環境として有利ということもある。

 そしてさらに言えば――実はこれが一番影響あることかもしれないが――二文で教える時、文学部の先生たちは、かなり自由に、「好き勝手に」、自分の本当に興味のあることをざっくばらんに喋っているように思うのだ。もちろん、一文の授業で先生たちが手を抜いているわけではない。むしろその逆で、一文では学問的にしっかりしたことを、基礎から徹底的に教えようとしている。ところが、それが授業にある抑制をかけている面もあるのではないか。ある意味、多くの教員の意識には(知らず知らずのうちに)、一文・二文のあいだにある線引きが存在しているように思われる(無論、そんな違いを建て前だけでなくまったく身体化していない先生方もいらっしゃるだろうが)。一文は教養・学問の場、二文はそこからはちょっとずれる場という区別――これは差別ではない。実際、我が身を振り返ってみても、一文では学問的手続きをしっかり踏んだり、教育的配慮に拘泥しすぎるあまり、授業が形式的で堅苦しくなったりする経験がある。教員になったばかりの頃、年上の先生から「授業の準備はしなくてはならないが、しすぎてはならない。教場での臨機応変さが大切だ」というアドヴァイスを頂いたことがあった。準備し過ぎると、授業に力を入れ過ぎると、逆効果になる――これは私の実感でもある。スポーツでも力みは選手のパフォーマンスを下げるというが、一文の授業は――少なくとも、私の授業は――この「善意の悪循環」に陥る部分があるように思う。

 それに対し、二文での授業は、良い意味で、肩の力が抜けている(「手抜き」とは違う……つもり)。教壇に立って、その一瞬一瞬に閃いたことを、学生たちの顔と反応を見ながら、柔軟に喋っている気がする。その場で思い付いたことを喋るのだから、時には間違ったり、的をはずしたりして、次の回で訂正を入れることもある。しかし、学問的な専門訓練を受けた教員が教場で思い付くことは、細かい部分で検討の余地はあるものの、大局ではまっとうな方向性をもった、刺激的なアイディアであることが多いのではないか。少なくとも、学生は教師の生きた思考に接することができる。学生からの具体的な応答がなくとも(あればもっと素晴らしい)、良い授業とは、やはり、教師と学生のあいだに潜在的なレスポンス(応答)がある生きた授業であって、それが教室という一つの公共空間を共に形成する者同士のレスポンシビリティ(責任)の土台となるだろう。

 それにしても二文って何だろう? 同じ文学部にありながら、一文とは異なる場所。とはいえ、教養や学問の場所でないとは言えない(専門の教員が教えているんだからね)し、それだけでもない場所。芸術系? 学際系? 社会人系? それらすべてであり、そのどれでもない。どこかずれた場所(少なくとも、一文からは)――とりあえず、そう呼ぶしかない。繰り返すが、この「ずれ」は差別でも卓越化でもなく、むしろ可能性なのである。

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