早稲田大学と特殊教育の関係

ここでは主に戦前の早稲田大学と特殊教育の関係についてみていきたい。

現・早大第一文学部教授の鈴木陽子先生は、

昭和54年から「特殊教育学」に関する講義を行っている。

この講義ノートを見返してみると、早稲田大学と特殊教育の関係はかなり深い。

では、どうしてこのように古くから早稲田には特殊教育が広まったのか。

それは、明治35年、松本孝次郎先生が、

早稲田大学文学部で特殊教育・教育法令を講義しているのが始まりらしい。

そこで松本孝次郎先生と特殊教育の関わりを見ていく。

履歴書を抜粋すると、

松本孝次郎
東京市牛込区箪笥町二番地平民
明治3年3月生まれ
明治21年9月第一高等中学校入学
明治26年7月卒業
明治26年7月文科大学哲学科入学
明治29年7月卒業
明治29年7月大学院に入学し、感覚論の原理を研究する
明治30年7月帝国大学より心理研究の補助を嘱託される
明治31年7月文科大学講師を嘱託される
明治35年9月より早稲田大学文学部で特殊教育・教育法令を講じている

となっている。

次に松本先生のことを書いた論文「松本孝次郎のこと」(鈴木陽子、

『第37回日本特殊教育学会大会発表論文集』、1999年)を参考に見てみると、

彼は心理研究をしており、明治33〜34年にかけて育成会というところで、

心理学を研究している。

その会の仲間に金子馬治や中島半次郎(ともに早稲田大学で教育学を講ずる)がいた。

松本は彼らによって早稲田に招かれたのではないかと考えられる。

 


第二の視点として大学の創設者・大隈重信も障害をもっていて、

そのために早稲田の教育に特殊教育が、

円滑に行われるようになったのではないかということが挙げられる。

1889年、当時、外務大臣であった大隈は条約改正問題という難題にぶつかっていた。

この難問に大隈は一つの解決策を出すが、それが非難の的となり、

反対派の一青年に爆弾を投げつけられて、片足を失った。

しかし、大隈はこの障害に挫けず、義足をつけ以前と変わらぬ生活を送る努力をし、

政治の世界でもこの事件後2度も内閣を組閣している。

このことに関して『障害学生と高等教育』(1997年、国際会議実行委員会編、多賀出版)に、

大隈の障害を苦にしない姿は「進取の精神の具現」であり、

当時「障害を持つ人々に大いなる希望としてうけとめられたにちがいない」と書いてあるが、

まさにその通りではないかと思う。

このことが早稲田大学で特殊教育が目立たずとも粛々と行われている理由ではないだろうか。


 

戦前の早稲田と特殊教育の関係を簡単に見てみると、

明治39年から左近允孝之進が盲学生を対象にした「中学講義録」の点訳発行を行っている。

またこの年以来、何らかの障害を持った教員が講義を担当している。

例えば明治末年(39〜41)頃、日本盲人の父といわれる好本督が、

高等予科において英語(作文)を講義している。


 

次ぎに聴覚障害児教育の発展に大いに貢献した山本忠興をあげる。

彼は大正元年に早稲田大学大学部理工科の講師に就任し、

昭和9年まで早稲田大学において教授として活躍していた。

彼の性格は「柔しい円満な教授ぶり」とあるように学生からは慕われており、

また「理工科の慈父、太陽」と評されるほどに理工学部発展に力を尽くした。

さらには野球部の部長や早大YMCAの会長を務めるなど大学に多大な貢献をした。

また彼は昭和8年に日本聾話学校の校長・理事長(1933年4月〜1951年3月)に就任している。

そこにおいて専門分野である電気工学の知識を活かして、

補聴器などの聴能機器を聴覚障害児教育に活用することに尽力した。

これが現在の補聴器等を用いた聴覚障害児教育の基礎を作ったことはいうまでもない。

このように山本忠興は教育に非常に情熱を向けていた人物であった。


 

明治42年〜大正6年まで政党政治家として著名な永井柳太郎が早稲田で学んでいる。

彼は中学2年の時にかかった骨膜炎が原因で足が不自由になった。

早稲田に入った彼は同志社中学からの恩師・安部磯雄に学び、

足尾鉱毒事件問題に学生として参加したり、雄弁会において演説を行い、

すばらしいという評判を得たりした。

この演説には大隈重信も「よくできた」との賛辞を送り、大隈の知遇を得ることになった。

これが彼の政党政治家の道につながっていった。


 
この他に、心理学教室で教授を務めていた戸川行男の名前も挙げて おこう。

彼は臨床心理学を研究しながら、山下清も在籍した知的障害をもつ 子どもたちの保護・教育実践をおこなった八幡学園に出入りし、

八幡学園の教育実践を紹介する『特異児童』を執筆した。



以上のように早稲田では明治の頃から学生として、教員として障害をもっている人を受け入れてきたし、

それを支援する教員も多くいた

また今と比べれば未熟ではあるが講義の点訳などを行い、

障害をもつ学生に安心して学べるように配慮してきた。

このように早稲田と特殊教育の関係は1世紀に及ぶ歴史の流れがつづいているといえる。


参考:「松本孝次郎のこと」、鈴木陽子、『第37回日本特殊教育学会大会発表論文集』、
    1999年9月
    
   『障害学生と高等教育』p1103〜1117、「障害学生の高等教育」国際会議実行委員会編、
   多賀出版、1997年発行

   『大学における障害学生支援のあり方』、p249〜377、
   日本障害者高等教育支援センター問題研究会編、星の環会、2001年発行

   「教育(学)研究における一側面−聴覚障害児教育の実践から−」、鈴木陽子、
   『フィロソフィア』第74号、早稲田大学第一文学部哲学会、1987年

   『山本忠興傳』、山本忠興博士傳記刊行会、1953年

   「父,永井柳太郎」、永井道雄、『新鐘』第32号、1983年
  
   『これからの教育を考える』、永井道雄、国土社、1978年

   『特異児童』、戸川行男、「現代日本児童問題文献選集25」、児童問題史研究会監修、山田明解題、日本図書センター、1988年

   など

下線部は2004年5月2日、追加(戸川行男教授に関連することは山澤清氏に様々なアドバイスを頂きました、厚くお礼申し上げます)

<文責:梅田祐司、東風安生、遠藤誠一(早稲田大学第一文学部総合人文学科教育学専修OB)>


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